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2012年8月11〜19日 長崎旅行

長崎旅行の報告

盆休みを利用して、厚木から車で長崎まで旅行に行ってきました。 途中、懐かしい京都にも寄りたいと。 いろいろな所に寄ることができました。 一連の報告なので、何時もとは逆に日付順で報告します。

8月11日(土)

15:15頃長崎に向けて出発しました。 初めて走る新東名高速道路を通るルートを選択しました。 新東名は道路が新しく、振動も無く走行も快適です。 ただ、ナビが効かないので、PAの場所の予測が付きません。 東名高速道路に戻るジャンクションまで標識を頼るしかありませんでした。 途中は標高が高い山中、生憎の悪天候ですが、逆に風景を楽しくしてくれました。 特に、山間から昇る湯気の風景が仙人になった気分です。

旧東名との合流点は想定していた通りに渋滞となっていました。 合流前の渋滞は大体想定していた通りなのですが。 最左車線が渋滞してないのでちょっと気になりました。 当然、誰もが左折専用になると想像しているのでしょう。 合流点近くになると、最左車線に流れ込む車両が増えてきました。 左折専用ではなかったのです。つまり、最左車線は、左折車が抜ける分、早い車線だったのです。 それを誤解して誰も使わなかったという訳です。 左折専用になるかどうかが表示されていないことが問題だと思います。

合流した後も問題が続出。合流後に殆ど流れない大渋滞は、当然なのです。 新旧の東名で4車線が合流して2車線になるのだから渋滞も無理ない。 こういう状態で夏の帰省時期を迎えるのは、明らかに設計ミスと言えるでしょう。

音羽蒲郡ICの手前 もう一つ、設計上の問題を見付けました。音羽蒲郡ICの手前から登坂車線が長く3車線相当になります。 何故か、登坂車線のみがスイスイと流れています。しかし、マトモな人はそこに入ろうとしません。 音羽蒲郡ICに着くと、その車線が音羽蒲郡有料道路に分岐していることが分かりました。 つまり、登坂車線なのですが、別の有料道路の分岐車線でもあったという訳です。 登坂車線をスイスイと走った車が、音羽蒲郡ICを過ぎて登坂車線が無くなるところで東名に戻るのです。 そして、そこを先頭に大渋滞が始まるという仕組みでした。 事実、2車線に戻った後は、段々と流れ始めました。

ここは、同じ2車線が始まって、2車線に続く道路ですから、だんだんと渋滞が解消していくはずの作りなのですが。 それどころか、他の有料道路に分岐するのだから、より流れてよいはずの道路なのですが。 しかし、一旦登坂車線に入った車が本線に戻ろうとするので、合流混乱の為に渋滞となっているという訳です。 こういう帰省ラッシュの場合は、はっきりとその傾向が出てきます。 今の時代、登坂車線は必要無いと思います。元々、2車線です。 道を譲ることは簡単です。 そうやって、欠陥東名高速道路を抜けました。

夜中に京都に着きました。今日は、車中泊で一泊します。 明日の見物に備えて、早目に寝ようっと。 (この日のみ詳細を記録していました。実際に作成したのは、7年後。 ここからは、写真に基づいた報告となります。)

8月12日(日)

将軍塚・大日堂 昨夜は、山科付近で車中泊。 そこから、三条に向かう途中に将軍塚がありました。 まだ早い時間だったので、初めてでしたが寄りました。

写真の看板の受け売りなのですが。 桓武天皇が平安遷都の折に、ここの見晴らしで都を定めた。 そうして、天皇が都の安泰を祈念して、将軍像を埋めたと伝えられるとのことです。

また、大日堂も説明があります。 京都市内を囲む連峰の一つの東山には、青龍が住む。 仏教の密教宇宙観において、胎蔵界の曼荼羅に相当する考えから、この地で発掘された石仏の胎蔵界大日如来をお祀りしてあると。 すみません、書いてある通りです。

三千院境内図 次は、三千院です。 学生時代に合コンで来た記憶はあるのですが。 まったく、内容は覚えていません。 とりあえずは、全体像という感じですね。

大原の里 麻と柿染め ここは、大原・三千院という言い方をします。 三千院の北西部に大原の里が広がります。 その奥にある寂光院を目指しました。 その途中で見掛けた風景の写真です。 (記入しているタイミングで確認すると) Googleマップに麻と柿染めの工房があると説明されています。 そういうものが飾っている様です。

寂光院 寂光院に着きました。 拝観料も必要なのですが、早過ぎました。 まだ開いていません。とりあえず、門のみ。 学生時代から知っていて、当時も行ったかもしれませんが。 致し方が有りません。三千院に戻ります。

律川に掛かる茅穂橋 大原の里から三千院に戻る途中に、宝泉院、勝林院、実光院がありました。 その先にあるのは、茅穂橋です。 三千院の両側に呂川と律川が流れています。 この茅穂橋は、律川に掛かる橋です。

呂川と律川は、それぞれ「りょせん」、「りつせん」と読みます。 音楽の調子を合わせる「呂律(りょうりつ)」から名づけられているとどこかに書いてありました。 呂と律は、雅楽の音階。 呂の音階と律の音階がうまく合わないのを「呂律が回らない」という言い回しだとか。 正しくは、「りょりつがまわらない」と読むのですが。 韻が変化して、「ろれつがまわらない」と言う様になったとか。 三千院の川の名もそういう音楽の調子から名付けられたそうです。

往生極楽院 見る所は沢山あるのですが、掻い摘んでの報告です。 写真は、往生極楽院というお寺。 三千院が三千院の形になる前から有ったお寺だそうです。 撮影したということは、由緒を感じたのでしょうか。 本人は、気付いていませんでしたが。

わらべ地蔵 往生極楽院の先には、面白いモニュメントがありました。 勿論、モニュメントと言うと怒られるかもしれません。 わらぺ地蔵といいます。 お地蔵さんなのですが、何か仄々とします。 トップページにも掲載しました。ご覧ください。 (フフッ、7年前のトップページですよ)

呂川に掛かる魚山橋 さらに進むと律川で紹介した呂川を渡ります。 この橋は、魚山橋といいます。 ここを通るといよいよ三千院ともお別れ。

三千院から市内の中心部に近付くのですが。 途中に宝ヶ池公園国立京都国際会館があります。 国立京都国際会館は、1997年に 地球温暖化防止京都会議(COP3)が行われた場所。 所謂京都議定書が採択された会議です。 しかし、私は、その先にある深泥池が懐かしい。 合コンの時に、話題となった池。自殺のメッカ。 藻が繁殖して、沈むと死体が浮かんでこないというので、話題となっていた様です。 当時の話です。

私が暮らした下宿 私が7年間暮らした京都の下宿は、中京区の千本上立売東入という所でした。 随分前から、下宿のおばさんには、年賀状が届かなくなっていました。 どうなっているか見てみたいと寄ってみました。

車が止まっている所が下宿でした。 そして道向かいにある一心亭といううどん屋が懐かしい。 私自身は、うどん、そばは、あまり食べないのですが。 下宿のおばさんがよく頼んで、食べさせてくれていました。 店主が居たので、おばさんの事を聞いてみました。 「おばさんは、釘抜き地蔵でどうぞうさんになった」 まったく意味が分からなかったのですが。

京都釘抜き地蔵石像寺 そこから、千本通りに出ると、少し北に行ったところにありました。 京都釘抜き地蔵石像寺というお寺です。 そこでいろいろと探してみました。

おばさんの地蔵菩薩 かなり時間は掛かりましたが、おばさんの地蔵菩薩がありました。 平成6年5月吉日に建之とおばさんの名前が書いてありました。 「どうぞうさんになった」とは、銅像に見える地蔵菩薩になったということだったのです。 合掌!

その後は、近くを車で散策しました。 大学生時代に足替わりにバイクを買ったバイク店。 昼食を食べた食堂。ラジコンをしたいと覗いた玩具店。 350ccのオートバイを止めさせて貰った本久寺も懐かしかった。 一通り見たら、長崎への旅を続行です。

8月15日(水)

久し振りの西海橋 さらに車中泊した後、長崎に着きました。 既に、私の両親は他界しているので、佐世保の家内の実家に直行。 暫くゆっくりしてから、私の故郷の長崎に向かいました。

(詳細は、覚えていないのですが。) 西海橋に来ると、第二西海橋が出来ていました。 西海パールラインという自動車道が出来て、自動車道の橋ができていたのです。 とりあえず、雰囲気が分かる写真をパチリ。

道の駅 夕陽が丘そとめからの眺望

家内が、割と文学に勤しんでいて、遠藤周作文学館に寄りたいといいました。 西彼半島の外海にある、道の駅 夕陽が丘そとめに併設されています。(逆かな?) 夕陽が綺麗なのでしょうが。 とりあえず、デジカメでパノラマ写真に収めました。

中田家のお盆 お盆なので、墓参りをしました。 姉弟、伯母、従妹とその子供たちと賑やかな時間でした。

8月16日(木)

女神大橋 一段落したら、弟がドライブに誘ってくれました。 食事の後、長崎市の西側の海岸を走りました。 以前は、開通してなくて、通った事は無かったのですが。 畝刈から海岸沿いに福田までの道。 最後は、女神大橋です。 長崎湾の入り江に掛かる白い橋。 綺麗に撮れました。

道ノ尾駅 帰宅した後、実家の周りを歩いてみました。 写真は、道ノ尾駅です。 私が生まれる前から実家の前にあった駅。 私の実家の一部と言ってもよいかもしれません。 今は、駅員も知らないかもしれませんが。

8月17日(水)

第二西海橋 帰りに撮った第二西海橋の写真です。 初めて西海パールラインを通ったのです。 とりあえず、報告です。

8月18日(木)

家内の実家の風呂の水栓 厚木に戻る日なのですが。家内の実家の風呂の水栓で変なことに気付きました。 シャワーのホースが邪魔して、洗面器が暴れている。 普通は、凍結対策で蛇口の下に出ているのですが。 この地は、凍結は心配がありません。 上から出すと使いやすい。 業者は、こういう細かい事に気を利かせてくれない。 まあ、仕方が無いかな。

中国道で苦労した 昼過ぎに出発して、車中泊の予定でした。 美東SAを過ぎた後、ガソリンが少ないことに気付きました。 美東SAの先は、鹿野SA、吉和SAと続きますが。 調べると、どちらもガソリンスタンドが営業していない。 次の安佐SAまで148kmという写真です。

有り得ない。どう見ても148kmも持たない。 しかも、この区間、インターで降りても山の中。 恐ろしい事が起きました

まず、考えたのはJAFです。 ガス切れに、10Lのガソリンをサービスしてくれます。 しかし、10Lでは足りない。 次に任意保険のロードサービス。 調べてくれましたが、どうしようも無いとの回答。

有り得ないと思いつつ。 次のインターで降りて、ガソリンスタンドを捜索。 無ければ、そこで野宿という状況でした。 今(当時)は、スマホも無く、調べる手段が限られていました。 ナビは付いていましたが、データが古いせいか、近くにガソリンスタンドが見当たりません。

昔は、SA毎にガソリンスタンドは営業していたもの。 時代が変わったと感じた出来事でした。 なんとか、無事、厚木に帰る事ができました。 翌日の事です。

後記 (2019.5.2 : 令和元年)

7年も経って記載すると書き方も難しい。 例えば、音羽蒲郡有料道路は、無料化されている。 スマホも今と違って流行っていなかった。などなど。 文章は、今の時代に書いたと分かる様にしか書けませんでした。 ご容赦ください。

ついでに、その頃のことを残しておきます。 長年勤めた富士通は、子会社在籍のまま、2006年に退職していました。 同じ年に再就職でNTTの子会社に就職。それから、6年が経過した頃。 流石に年齢から、業務的には、リーダ的に任されていたと思います。

長い期間を掛けて計画された、私の生家の区画整理が、この年の前年に始まりました。 丁度その頃、自宅のお別れ会を実施しました。 そして、この年(2012年)の6月に孫が生まれて、嬉しい年でした。 そう、名実共にお爺ちゃんとなった年だったのです。 また、長崎帰郷の事を考え始めた時期でもありました。




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